優雅に叱責する不幸で敬虔な幼子たち{仮}

日大通教哲学専攻(1年入学)での学修過程メモ

2017年衆議院選に際して;投票に関する個人的な考え

成人し、選挙のたびに投票へ行っているけれど、いくつになっても、自分の投票行動というものに自信は持てない。
20年の間で投票へ行かなかったことはないので、珍しいとよく言われるけれど、別に私は特定の政党を強固に支持しているわけでもないし、特定の宗教団体に所属しているわけでもない。 

そんな私が何故、選挙権を得てから、 これまでずっと投票所へ足を運んできたのか? 若い人へ向けて、二十歳の自分が言葉にできなかった考えを、書いてみる。

とはいえ、多分私は、それほど深く考えて投票に行っていたわけではなかった。

強い信念があったわけではない。行くための理由を、明確に言うことはできなかった。しかし「何となく」で行っていたわけでもなかった。「何となく」では、最初の投票に行くことはなかっただろうし、その後も続けて行くことはなかったであろう。

私には、言葉にはできないけれど、「投票へ行く理由」というものが確かに存在していたのである。

 

私たちは、中学校の公民、高校の現代社会、という学校教育のなかで、選挙の仕組みを学習し、投票へ行くことは国民の権利だと教えられる。学校の先生は、投票へは必ず行ったほうがいい、と言う。当の先生が毎回ちゃんと投票へ行っているとは限らないのに、そう言う。

私は多分そのとき、「投票へは行ったほうがいい」ということが、真実であると感じ取ったのだ。*1

 

そうは言っても、親だって行っていなかったりする、とか、先生だって忙しいと行かないでしょ? とか、面倒くさい、とか、時間がない、とか、みんなだって行かないって言ってたし、とか、自分一人の行動が政治を変えるわけない、とか、行かない理由なんていくらでも思いつく。

行かない人から見れば、きっと投票に行く人には、それなりのちゃんとした理由と、投票する人物が決まっているのだと思っているのかもしれない。(もちろんそういう人もいるけれど、もしそういう人ばかりだったら、選挙なんて出来レースになってしまう)

そのときの私はそうではなくて、投票へ行くという行動が、成人として、社会人として正しい行為で、私は常に正しい行動を取りたかった。自分のために。

そして、それは十分、投票へ行く理由となりえた。

 

じゃあ、私は常に正しい選択をしてきたか? と言われると、それは違うと思う。

成人してから、市議選、県議選、市長選、県知事選、参議院選衆議院選、と一通りこなしてきたけれど、自分の選択が正しいと確信して人を選んだことなんか、一度もない。おおかたの人だってそうだろう。そして、選んだ候補者に全幅の信頼を寄せているわけでもない。

他の人と同じように、付近を走る選挙カーがうるさいなと思っていて、配っているビラは受け取らないようにして、選挙公報くらいは読んでいる。とにかく、その中から一人、一番マシな人を決めて、投票へ行く。*2

私は正しい行動をしたいと常に思っているけれど、 動機がいくら正当だからって、その後の行動や結果が、必ずいいことをもたらすなんてことも、思っていない。私は間違っているかもしれない、という思いはどこかに置いて、準備をしておく。

選挙に関していえば、私は選挙という政治システムをある程度信頼しているようで*3、私の選択が間違っていても、他の人の選択が正しければ大丈夫だろう、とか、私の選択が多数派ならば、政策は多くの人に恩恵をもたらすだろう、とか、もし少数派ならば、それはそれで意見の表明になるだろう、とか考えている。

こうやって書くとかなり楽観的だけど、私は自分の選択というものを肯定的に捉えていることと、他者に対する信頼というものをある程度持っているのだと思う。

 

そして今、ネットを見れば、投票へ行ったほうがいい理由が、説得力のある理由が、いくらでも出てくる。行く、行かないは個人の自由だけど、建前とかではなく、「投票そのものへ行ったほうがいい」には真実が含まれていると、私は考えている。

 

*1:大学で政治思想史を学んだとき、自分のその直観ははずれていなかったと感じた。私は元々、人類が積み重ねた知恵に敬意を感じたり、制度のできた経緯を知って先人の努力をありがたいと思うことが多いのだ。

*2:最近はうんこに例えられるんだね。一番ましなうんこを選ぶ。

*3:政治学を取ったくせによくわかっていないのだけど、現在一番マシだと思われている政治システムそのものに対する信頼というか、それこそ、これが一番マシだろうと考えた先人に対する信頼。