モダン生駒100年史(生駒ふるさとミュージアム)
市の郷土資料館みたいな建物の企画展へ行った。
サブタイトルが「鉄道開通と近代生駒の夜明け」とある。日本史入門のレポートで「盛り場考」をやったので、私自身に鉄要素はないのだけど、鉄道と近代化の関係がちょっと気になって行ってみた。
初めて訪れたのだけど、建物自体は平成26年に改修されているようで、とてもきれい。あと館内は、靴を脱ぎ用意されているスリッパに履き替える。
私の記憶が確かならば、小学校3年生くらいに社会科学習で、郷土史を学んだような気がするのだけど、生駒市の小学生はここに来るのだろうか。玄関部分はそんなに広くないけど。
そして中もそれほど広くなかった。ただ、展示は良かった。
生駒市は生駒山に宝山寺があり、鉄道が開通する前は、大阪からの参詣客が八丁門峠(はっちょうもんとうげ)を歩いて通っていたとのこと。奈良と大阪を結ぶ街道は暗峠(くらがりとうげ)しか知らないんだけど、八丁門峠ってどこよ? と思って検索かけてみたら、こんな親切な記事があった。
郷土史研究って奥が深いな。
八丁門峠は現在ほぼ廃道で、奈良側はハイキングコースとして整備されている模様。へぇ~。でもこの記事読んでいても、迷いそうで怖い。私がこの道を通ることはないだろう。
とにかく、大阪電気軌道、略して大軌が上本町・奈良間の鉄道開通を目指して、生駒山のトンネル工事をはじめたのが明治44年。大正2年に落盤事故に遭いつつも大正3年に開通、竣工した。
鉄道が開通した影響で、宝山寺の参詣人が増加して、門前町・歓楽街が発達する。大正10年に生駒芸妓株式会社が設立したり、「生駒小唄」っていうご当地ソングができたり、昭和5年にはダンスホールができている。
日本初のケーブルカーも大正7年に運転を開始している。生駒駅から宝山寺までの2kmは坂道なので、参拝者の利便性を考えてのことだ。
ケーブルカーをつくったのは生駒鋼索鉄道だけども、大正11年に大軌と合併している。そしてその大軌も、昭和19年に関西急行鉄道、南海鉄道と合併。近畿日本鉄道が誕生する。
生駒市中心で見ている展示だけど、関西の市町村は近鉄抜きの近代化は語れないような気がしてきた。当時の終着駅だった上本町から見ると、奈良からたくさん人が来たんだろうなあ。
個人的に「おっ」と思ったのは、生駒山嶺小(れいしょう)都市計画。昭和8年に大軌が小都市開発を計画したものの、予算が決済できなくて幻となった計画、と書いてある。ドイツ人建築家ブルーノ・タウトに依頼し(すごい人に依頼しているなあと思った)基本計画まではできていて、計画を下地に別荘群が建てられていた! 現在は残っていないとのことなのだけど、これが残っていたら、(たとえブルーノ・タウトの設計した建築でなくとも)絶対見学に行きたかった…。昭和初期の別荘なんてそそるのに、残念。
ちなみに、生駒100年史、どこから数えて100年なのかというと、ケーブルカーの開通からだった。
測量野帳にメモ。前回購入した鉛筆で。
この野帳ももう少しで使い切りそうだ。