優雅に叱責する不幸で敬虔な幼子たち{仮}

日大通教哲学専攻(1年入学)での学修過程メモなのに、展覧会ばっかり行っている

太もも写真展について考えていたこと

「太もも写真の世界展2018in池袋マルイ」という写真展が、中止になるという記事をtwitterで目にした。

詳細を読まずに、これは身体論や存在論にせまる写真展なのかと思っていた。

 

人間の身体の中から、”太もも”という一部分を取り出して、それを眺める。そこに人間性は見いだされず、ただひとつの物体としての”太もも”が存在する。

”太もも”のみを、人の身体から切り取ったとき、そこにヒトの存在はあるのか。またヒトの存在を感じることはできるのか。

「太もも写真の世界」とはどういうものなのか。様々な太ももが見られることだろう。

女性の、男性の、

赤ん坊の、老人の、

肥満の、痩身の、

アスリートの、ボディビルダーの、

黒人の、白人の、

あったはずの、今はなき、

生きている、死んだ、

現在の、過去の、

そういったありとあらゆる太ももが展示されて、見る人を圧倒する。

”太もも”とは何なのか。”太もも”の定義、存在意義、価値。今改めて”太もも”について考える。問いが発せられて、ひとつの答えが導かれる。或いは、各々がそれについての答えを胸に抱く。

また”太ももを眺める”という行為そのものにも目を向けることになる。フェティシズムなのか、パラフィリアなのか、アートなのか。

太ももを眺めている主体である私は、どういう存在なのか。私と太ももはどういう関係性なのか。

身体から部位を切り離してみることで、臓器売買等の犯罪や医学の技術と倫理について思いをはせるかもしれない。

 

と、ひとしきり妄想してからニュース記事を読んでみたら、普通に「女性の」太もも、とか書いてあって、なんだよ、くそつまんねんな、そんな展覧会中止でいいよ、と思った。