優雅に叱責する不幸で敬虔な幼子たち{仮}

日大通教哲学専攻(1年入学)での学修過程メモなのに、展覧会ばっかり行っている

『ブレードランナー』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

原作付の映画を見るのが好きだ。

今回は、映画『ブレードランナー』を見てから、原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだ。

 

ブレードランナー

ストーリー

まずは、あらすじ。Wikipediaのストーリーの項がまとまっていてわかりやすく、ほぼ話の全てが記載されている。 以下、転載。

舞台は2019年のロサンゼルス。環境破壊により人類の大半は宇宙に移住し、地球に残った人々は人口過密の高層ビル群が立ち並ぶ大都市での生活を強いられていた。宇宙開拓の前線では遺伝子工学により開発されたレプリカントと呼ばれる人造人間が、過酷な奴隷労働に従事していた。しかし、レプリカントには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻すような事件が多発する。レプリカントは開発したタイレル社によって安全装置として4年の寿命が与えられたが、後を絶たず人間社会に紛れ込もうとするレプリカントを「解任」する任務を負うのが、警察の専任捜査官「ブレードランナーであった。
タイレル社が開発した最新レプリカント「ネクサス6型」の一団が人間を殺害し脱走、シャトルを奪い、密かに地球に帰還した。タイレル社に押し入って身分を書き換え、ブレードランナーを殺害して潜伏したレプリカント男女4名(バッティ、リオン、ゾーラ、プリス)を見つけ出すため、ロサンゼルス市警のブレードランナーを退職していたリック・デッカードが呼び戻される。デッカードは情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書であるレイチェルもまたレプリカントであることを見抜く。人間としての自己認識が揺さぶられ、戸惑うレイチェルにデッカードは惹かれていく。
デッカードは、脱走グループが残していった証拠物から足跡をたどり、歓楽街のバーで踊り子に扮していたゾーラを発見、追跡の末に射殺する。その直後リオンに襲われるが、駆けつけたレイチェルが射殺した事でデッカードは命拾いするデッカードはレイチェルを自宅へ招き、未経験の感情に脅える彼女を熱く抱擁する。一方レプリカントグループのリーダー、ロイ・バッティは眼球技師を脅して掴んだ情報をもとに、プリスを通じてタイレル社の技師J・F・セバスチャンに近づき、さらに彼を仲介役にして、本社ビル最上階に住むタイレル博士と対面する。バッティは地球潜入の目的、彼らレプリカントの短い寿命を伸ばすよう依頼するが、博士は技術的に不可能であり、限られた命を全うしろと告げる。バッティは博士の眼を潰し、セバスチャンをも殺して姿を消す。
タイレル博士とセバスチャン殺害の報を聞いたデッカードは、セバスチャンの高層アパートへ踏み込み、部屋に潜んでいたプリスを格闘の末に射殺。そこへ戻ってきたバッティと最後の対決に臨む。優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、デッカードはアパートの屋上へ逃れ、隣のビルへ飛び移ろうとして転落寸前となる。しかし寿命の到来を悟ったバッティはデッカードを救い上げ、穏やかな笑みを浮かべながら命果てるデッカードレプリカントとして同じ運命が待つレイチェルを連れ、逃避行へと旅立つ

Wikipediaより)*1

長い引用なので、重要な個所をとりあえず着色して、主要人物を太字にした。

TVで放送されたバージョンを見たのだけど、とにかくバージョン違いが多すぎて、自分が見たのが、どれなのかよくわからない。デッカードのナレーションと二人の旅路によるエンディングなので、多分最初のほうのバージョンかな。

音楽が印象的で良かった。

フィリップ・K・ディックの作品は、『トータル・リコール』(1990)の映画を最初に見ているので、『ブレードランナー』に出てきた夜の繁華街の感じとかが、ディックの世界観だなあと思って見ていた。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

概要

第三次世界大戦後の未来、サンフランシスコを舞台に賞金稼ぎのリック・デッカードが、火星から逃亡してきた8体のアンドロイドを「処理」するというあらすじ。電気動物やムードオルガン、マーサー教などディック独自の世界観の上に描かれている。この世界では自然が壊滅的打撃を受けているために、生物は昆虫一匹と言えども法によって厳重に保護されている。一方で科学技術が発達し、本物そっくりの機械仕掛けの生物が存在している。そしてその技術により生み出された人造人間は感情も記憶も持ち、自分自身ですら自分が機械であることを認識できないほどのものすら存在している。主人公は、他者への共感の度合いを測定するテスト「フォークト=カンプフ感情移入度測定法」によって人造人間を判別し、廃棄する賞金稼ぎである。この世界での生物は無条件の保護を受ける一方で、逃亡した人造人間は発見即廃棄という扱いとなっており、主人公のような賞金稼ぎの生活の糧となっている。

Wikipediaより)*2

あらすじ

8人のアンドロイドが火星を脱走して地球に侵入する。2人はサン・フランシスコ警察署主任のデイヴ・ホールデンにより処理される。アンドロイドのマックス・ポロコフは、デイヴ・ホールデンに重傷を負わせ、逃走する。サン・フランシスコ警察署のハリイ・ブライアント警視は、部下のリック・デッカードに、残りの6人の処理を依頼する。デッカードは、バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)なのだ。デッカードは、逃走したアンドロイドが搭載しているネクサス6型脳ユニットを開発したシアトルのローゼン協会を訪問する。職員のエルドン・ローゼンの姪、レイチェル・ローゼンを、フォークト=カンプフ感情移入度検査法で試験を行う。デッカードは、レイチェル・ローゼンがアンドロイドであり、おそらくネクサス6型脳ユニットが装着されている事を見破る。世界警察機構所属のソ連の刑事と名乗り、サンドール・カダリイが、デッカードに近づいてきたが、実は、アンドロイドのマックス・ポロコフが正体であった。とっさの判断でデッカードは、マックス・ポロコフを銃殺する。サン・フランシスコ歌劇団所属のオペラ歌手ルーバ・ラフトを訪問したデッカードは、逆に変質者として警察のクラムズ巡査に連行され、ガーランド警視の前に連れてこられる。ガーランド警視の部下の賞金稼ぎフィル・レッシュが、ガーランド警視がアンドロイドである事を見抜いて、ガーランド警視を銃殺する。デッカードとフィル・レッシュは、オペラ歌手ルーバ・ラフトを追跡して、美術館で発見する。フィル・レッシュが、ルーバ・ラフトを逮捕、拘束し銃殺する。フィル・レッシュをアンドロイドと疑ったデッカードは、フィル・レッシュにフォークト=カンプフ感情移入度検査法で試験を行う。フィル・レッシュは人間であった。
ジョン・イシドア模造動物修理店の集配用トラックの運転手。知能が弱く、特殊者(スペシャル)として、廃墟のビルに一人きりで住んでいる。同じビルに住むことになったプリス・ストラットンと親しくなる。プリス・ストラットンは逃亡してきた8人の一味で女アンドロイドであった。後から合流したアンドロイド、ロイ・ベイティーとアームガード・ベイティー夫婦とも、ジョン・イシドアは友達になる。ロイ・ベイティーが、脱走した8人のアンドロイドのリーダーである。ジョン・イシドアは、彼らがアンドロイドと知った後も、4人で親しくつきあった。デッカードが、3人のアンドロイドの居場所を遂に特定する。廃墟のビルを訪問したデッカードは、階段でプリス・ストラットンを銃殺し、部屋の中でロイ・ベイティーとアームガード・ベイティー夫婦を銃殺する。

Wikipediaより)

 原作は、章立てが22あるのだけど、映画を先に見たことで、最初の1~2章は、内容に入っていくのが少し辛かった。1章では、デッカードには妻がいて、本物ではない電気羊を飼っていることを気に病んでいる。2章では、映画にはないイシドアという登場人物がでてくる。

ただし、3章からは、ようやく映画との接点がでてくるので、そこからはぐいぐい読むことができた。

映画版と原作の相違点

正直、細かい違いがいっぱいあるので、共通して押さえている所を挙げたほうが良いのでは? という感じがしている。それがつまり、映画と原作に共通して、伝えたいことだ。

あらすじとして共通しているのは、「近未来の世界観で、主人公のデッカードがアンドロイドを始末すること」である。そして、そのなかでデッカードはアンドロイドに共感し、彼らを殺すことをやめる。

原作では、生物がとても貴重で、人々は羊や牛でもペットとして飼っている。なにかしらの生き物を飼わないと、ちゃんとしたヒトではないかのような価値観がこの世界にはあるのだ。デッカードは羊を飼っているが、 それは本物ではない電気羊なため、本人は非常にそれを気にしていて、いつか必ず本物を買うと決めている。そのため、生体を扱うシドニー社のカタログをいつもチェックしている。

原作では、イシドアという青年が出てきて、アンドロイド3人をかくまっている。彼は精神機能テストに合格できず、”ピンボケ”や”特殊(スペシャル)”と呼ばれ、適合者と区別されている。「一年半前から」とあるので、生まれつきではなく、発症したのだろう。巨大なビルに一人で暮らしている。

映画では、セバスチャンにこの人物の一部が投影されている。アンドロイドは、生き物に対して共感能力を持たないので、原作では蜘蛛の足を半分にしても動けるか、といった実験をしたりして、イシドアを悲しませるし、映画では、ロイがセバスチャンに、タイレル博士と会わせる よう頼むとき、セバスチャンの友達でもある彼の作った自動人形の目玉をくりぬいたりする(直接そういう表現はなかったけれど、そう見えるような演出がなされる)。

デッカードがアンドロイドに共感していく過程が、映画と原作では最も違うと言える。映画でのデッカードは、レイチェルとロイが彼に大きな影響を与える。原作を読む感じだと、むしろオペラ歌手のルーバ・ラフトと、デッカードと同じ賞金稼ぎのフィル・レッシュの事件が、デッカードにきっかけを与えている。

感想

アンドロイドは模造機械でなく、有機生命体だが、共感能力がない。慣れ親しんだ姿(人間)をしたものが、異質さを見せると、それは途端に「不気味なもの」に変わるが、原作のアンドロイドたちは、まさにそんな感じだった。

原作のデッカードが、ルーバ・ラフトに共感を覚えたのは、彼女がアンドロイドでありながら、アンドロイドが嫌いであり、人間のもつ他人に対する親切や優しさに対して憧れ(というか優秀な生き物として認識し)、それを模倣しながら行動してきたからだ。逆に、人間ではあるが、それらを理解しようとしないような言動をするフィル・レッシュに対しては嫌悪感を抱いていた。

原作は、人間とアンドロイドの違いは、共感能力によると考えている。原作も映画も、模造だろうと本物だろうと、”生きているもの”に対して人間は愛情を注ぐことができる、という形で終わりを迎えている。

「何を生きているものとみなすのか」

原作を読んだあとの、素朴な疑問。しかしかなり哲学・脳科学的な疑問。

日本人はアニミズムや本覚思想の影響で、山や川、木や草花にも「生きた気」を感じることができるけれど、その延長でありとあらゆるものを擬人化したり、キャラクター化したりすることは、西洋文化圏では、かなり狂気の沙汰なのかもしれない。

 

 多分、私が見たのはこれじゃないと思うんだ。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 

 作者の写真が全然イメージじゃなくて、勝手なイメージを持つもんじゃないなって思った。