優雅に叱責する不幸で敬虔な幼子たち{仮}

日大通教哲学専攻(1年入学)での学修過程メモ

『西郷どん』斉彬の「未来人」ぶりについて思ったこと;倫理学概論に話が飛ぶ

過去二年の『真田丸』と『おんな城主直虎』が意図して出さなかった「未来人」が、『西郷どん』では島津斉彬において復活した。
ドラマを見ながら、twitterのみなさまの実況を追っかけていたのだけども、いわゆる「これから先は~」的な未来予知のような将来を語る人のことを「未来人」と言っていて、言い得て妙だと思った。

 

twitterでの「未来人」発言を見る前に、斉彬の「侍がふんぞりかえって刀を持つ時代は終わる」というセリフを聞いたとき、私はかなりがっくりきた。正直、過去二作を見たあとだけに、こういう人物が大河ドラマに出てくることに違和感を覚えたほどだった。
でもtwitterにもあったように、以前の大河ドラマではこういう人物がでてくるのがむしろ当たり前だった。過去二作は大きな時代の流れに翻弄されながらも懸命に生きていく人々であったのに対して(歴史のなかでは脇役)、幕末は時代の流れのなかで色んな立場の人が次々と表舞台に立っては消えてゆくような激動の時代なので、流されていくというよりも時代を切り開いていくような人物が多い。多少先進的な目で世の中を見ていてもおかしくないどころか、視聴者からすれば現代的価値観で動く人物のほうが見ていて安心できるのかもしれない。

 

それでも私がそれに乗り切れず「あ~あ~」と思ったのは、その人物の作り方に共感できなかったせいだ。
真田丸』と『直虎』が良かったのは、私たちにわかりにくい当時の価値観に忠実に動いていたからではなく、当時の価値観を踏まえた上で、主人公たちが自分たちの経験の範囲で感じたり学んだりしたことの普遍性をうまくドラマにしたことだった。それが丁寧に描かれていたから、翻弄されながらも一生懸命生きてきた彼らの物語にのめり込むことができたのだと思う。

 

『西郷どん』は、ぽっと出てきた斉彬を掘り下げていないし、彼が主人公なわけでもない。西郷に影響を与えた人物として「未来人」的発言をしているので、そういうキャラクターなのだと言えばそうなのかもしれないけれど、2話3話と続けて見て、あまりにもみんなが斉彬頼み、スーパー斉彬な扱いにちょっと「うへぇ」となっている自分がいる。

 

倫理学概論のテキストは、ヘーゲルの人倫を中心に倫理について書かれているのだけど、それによれば人の倫理は習俗から共同体を経るときに主体的自覚が必要ならしい。このテキストに書かれていること自体、実はまだよくわかってない上に、私自身納得していないのだが、斉彬を見たときの違和感が、このテキストにある倫理観に対する違和感とよく似ている。

それは、斉彬が「あるべき日本の姿」を思い描いていることそのものが、西洋の倫理観にすごく近いのではないかということである。

倫理学概論のレポートは、テキストを参照しつつほとんど『菊と刀』を読んで書いた。徳のジレンマという章には、西洋と日本の善に関する違いについて書かれている。良いこと(善)というのは「家族」という場においても「市民社会」という場においても「国家」という規模になっても変わらない、というのが西洋の考え方だ。だから「あるべき理想の姿」というのを思い描ける。しかし日本においては、孝と忠がぶつかるということがしばしばあり、そのことに対してルース・ベネディクトは全く納得していない。

この違いをうまく形にできなくてずっとモヤモヤしていたのだけども『道徳を基礎づける』を読んだときに、そのモヤモヤを解決する一端を見つけた。孟子の、善の波及効果みたいな考え方が、私の考える日本人の倫理観をかなり明確に説明していると思ったからだ。

 

話を斉彬に戻すと「習俗」を離れて「共同体」「社会」へ進む際に、幕末の日本において、倫理的な主体的自覚というものが作られるような環境に斉彬があったとはちょっと思えず、しかし「これからの侍は~」発言は明らかに次期藩主としての斉彬の倫理観から出た言葉であるのは間違いないように思えて、もやっとしているわけなのである。

 

そして今思ったのだけど『西郷どん』の斉彬は「ケン・ワタナベ」感が強すぎるってことなのか?! 主体とかいう以前にさ。

 

 

菊と刀 (講談社学術文庫)

菊と刀 (講談社学術文庫)

 

  

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

 

 図書館で借りて読んだ(新書のほう)後に、学術文庫で出たので有難くて買ってしまった。ゆっくり読み込みたい。