成績評価について;Sをとるということ
科目での単位をほぼ取り終えたので(あとは卒論)、成績評価について思ったことを書く。
日大通教の成績は、試験でのみ採点される。レポートは評価の対象外だ。スクーリングを積み重ねると試験を二度受けるので、その平均が成績として反映される。
点数と成績評価については多分こんな感じ。
S:100~90
A:90~80
B:80~70
C:70~60
D:60以下(不合格)
要覧のどこかに書いてあったように 思うけど、もしかしたら記憶違いかもしれない。
内訳を詳しく言うと、
C:授業内容(または教科書の内容)を半分以上わかっている状態の理解度
B:授業内容(または教科書の内容)をほぼわかっている状態の理解度
A:授業内容(または教科書の内容)をほぼわかっていて、尚且つ自分の意見が付け加えられる状態の理解度
S:授業内容(または教科書の内容)をほぼわかっていて、尚且つ他の事例を持ち出すことができ、それに対して自分の意見が付け加えられる状態の理解度
ということだと思う。
この内訳は、私が今までに試験を受けて、つけられた評価をみての予想だから、必ずこうだとは言えないけれど、多分先生方はこんな感じで評価をつけていると思われる。あと、哲学系科目中心での予想だから、全く受けていない英文とか商学とか経済とかの評価についてはわからない。
例えばBとAの差は、自分の意見を書けているかどうかの差なのだが、保健体育講義を科目修得試験で通ったとき、学友の一部が「完璧に暗記していったのにBだった」と言っていた。私が最初に受けた科目修得試験で、顔見知りの学友が一人もいなかったので、この科目でAをいただいたときは、成績に関してはこれといった感想も特になく、体育実技ではほぼ全ての人がAだった印象を受けたので、保健体育講義もそんな感じなんだと漠然と思っていた。
多分私のAと彼女のBに差があるとすれば、私は完璧な暗記はできなかったけれど、事例の羅列にとどまっていた教科書の記述に対して、そこには書いていなかったまとめの一言を加えたことによると思う。
この差に早めに気づくことができたので、試験は意識的に自分の意見を書くようにした。授業内容(または教科書の内容)を踏まえたうえで、以上のことから私はこう考える、というまとめとその論拠を書くといいのだと思う。
AとSの最も違うところは、授業でやったこと以外のことが書かれているか否かのような気がする。残念ながら科目修得試験でSを取ったことがないので、そこはわからないのだけど、スクーリング併用試験では、3日間なり4日間なりでやった授業内容を踏まえた上で他の事例を書いたとき、もしくはもっと突っ込んで論述したときにSをいただいた。
例えば、科学哲学では3.11の原発事故を例に、テクノロジーと倫理についてやっていたのだけども、当時ポケモンGOがニュースになっており、先生は今起きている問題の数々を何故企業は予測できなかったのか、ということに興味があったらしく、企業や科学者の認識と一般市民の認識の乖離を、授業のあいだにちょいちょい挟みながら話をしていた。
試験は授業を踏まえた上で自由に書かせてくれるスタイルだったので、私はポケモンGOから得られるビッグデータの活用についての利用者の危機感の薄さと企業倫理について書いたのだけど、正直、結果が出るまでは不安だった。別にSを狙って書いたわけではなかったので、もしかしたらすごく外してしまったのでは…? と考えて、とにかく何でもいいから合格させてください~とお祈りしていたほどだ。だって学友のほとんどが、試験は原発で書くって言っていたんだから。
でも、授業で扱った教科書にはかなり手厳しい原発批判が書かれていて、その通りだよな~という感想しか持てずにいた私は、倫理に関して新しい見解を打ち出すというのが無理だったので、そこを避けたのだった。
しかし、危ない橋を渡ってとったSのような気がする。こんな冒険しなくても、授業で扱った内容を踏まえた上で、先生が語らなかったその先を突っ込んで論述できたらSが取れると思うのだけど、その深さが先生によって違う気がするので、なかなか難しい。私の場合はテーマ自由な論述ほど、授業と関係するところを、事前に読んだ関連本につなげて書けたので、Sを取れた。取れた数は多くないけど。
以上のことは試験の数をこなしていると、何となくわかってくることなので、この記事を必要とする人は、まだ日大通教で学び始めたばかりの人たちだと思う。頑張って欲しいというエールを込めて。
『西郷どん』斉彬の「未来人」ぶりについて思ったこと;倫理学概論に話が飛ぶ
過去二年の『真田丸』と『おんな城主直虎』が意図して出さなかった「未来人」が、『西郷どん』では島津斉彬において復活した。
ドラマを見ながら、twitterのみなさまの実況を追っかけていたのだけども、いわゆる「これから先は~」的な未来予知のような将来を語る人のことを「未来人」と言っていて、言い得て妙だと思った。
twitterでの「未来人」発言を見る前に、斉彬の「侍がふんぞりかえって刀を持つ時代は終わる」というセリフを聞いたとき、私はかなりがっくりきた。正直、過去二作を見たあとだけに、こういう人物が大河ドラマに出てくることに違和感を覚えたほどだった。
でもtwitterにもあったように、以前の大河ドラマではこういう人物がでてくるのがむしろ当たり前だった。過去二作は大きな時代の流れに翻弄されながらも懸命に生きていく人々であったのに対して(歴史のなかでは脇役)、幕末は時代の流れのなかで色んな立場の人が次々と表舞台に立っては消えてゆくような激動の時代なので、流されていくというよりも時代を切り開いていくような人物が多い。多少先進的な目で世の中を見ていてもおかしくないどころか、視聴者からすれば現代的価値観で動く人物のほうが見ていて安心できるのかもしれない。
それでも私がそれに乗り切れず「あ~あ~」と思ったのは、その人物の作り方に共感できなかったせいだ。
『真田丸』と『直虎』が良かったのは、私たちにわかりにくい当時の価値観に忠実に動いていたからではなく、当時の価値観を踏まえた上で、主人公たちが自分たちの経験の範囲で感じたり学んだりしたことの普遍性をうまくドラマにしたことだった。それが丁寧に描かれていたから、翻弄されながらも一生懸命生きてきた彼らの物語にのめり込むことができたのだと思う。
『西郷どん』は、ぽっと出てきた斉彬を掘り下げていないし、彼が主人公なわけでもない。西郷に影響を与えた人物として「未来人」的発言をしているので、そういうキャラクターなのだと言えばそうなのかもしれないけれど、2話3話と続けて見て、あまりにもみんなが斉彬頼み、スーパー斉彬な扱いにちょっと「うへぇ」となっている自分がいる。
倫理学概論のテキストは、ヘーゲルの人倫を中心に倫理について書かれているのだけど、それによれば人の倫理は習俗から共同体を経るときに主体的自覚が必要ならしい。このテキストに書かれていること自体、実はまだよくわかってない上に、私自身納得していないのだが、斉彬を見たときの違和感が、このテキストにある倫理観に対する違和感とよく似ている。
それは、斉彬が「あるべき日本の姿」を思い描いていることそのものが、西洋の倫理観にすごく近いのではないかということである。
倫理学概論のレポートは、テキストを参照しつつほとんど『菊と刀』を読んで書いた。徳のジレンマという章には、西洋と日本の善に関する違いについて書かれている。良いこと(善)というのは「家族」という場においても「市民社会」という場においても「国家」という規模になっても変わらない、というのが西洋の考え方だ。だから「あるべき理想の姿」というのを思い描ける。しかし日本においては、孝と忠がぶつかるということがしばしばあり、そのことに対してルース・ベネディクトは全く納得していない。
この違いをうまく形にできなくてずっとモヤモヤしていたのだけども『道徳を基礎づける』を読んだときに、そのモヤモヤを解決する一端を見つけた。孟子の、善の波及効果みたいな考え方が、私の考える日本人の倫理観をかなり明確に説明していると思ったからだ。
話を斉彬に戻すと「習俗」を離れて「共同体」「社会」へ進む際に、幕末の日本において、倫理的な主体的自覚というものが作られるような環境に斉彬があったとはちょっと思えず、しかし「これからの侍は~」発言は明らかに次期藩主としての斉彬の倫理観から出た言葉であるのは間違いないように思えて、もやっとしているわけなのである。
そして今思ったのだけど『西郷どん』の斉彬は「ケン・ワタナベ」感が強すぎるってことなのか?! 主体とかいう以前にさ。
道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)
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図書館で借りて読んだ(新書のほう)後に、学術文庫で出たので有難くて買ってしまった。ゆっくり読み込みたい。
哲学演習Ⅱ(2回目)
思い出して書く。
単位取得方法
スクーリング積み重ねのみ。
授業内容
今回はメディア授業を受講した。この演習が合格すれば単位が完成する。しかも内容が、卒論制作に向けての授業なので私にとっては時期的にも有難い演習だった。
私が入学した頃は、メディアの哲学演習はカントを講読していたはずなのだけども、担当していた教授(カントを専門とされていた)が亡くなられたので、代わりの先生が半年ほど担当され、最近になって卒論制作へ向けての授業にリニュアルされた。
最初の課題は、テーマを決めること。問題、主張、論拠の提出だった。
夏の卒論指導で私が興味あったのは、疑似科学だったのだけど、岩波の『哲学・思想辞典』で項目を追っかけていった結果、疑似科学→懐疑→推論と興味の対象がスライドしていって、パースのアブダクションに行きついた。 このパースのアブダクションを論拠に、自分の主張をのせて、何を問題としているのかを考えてまとめた。
値段はそれなりにするけれど、哲学科に入ってから割りとすぐに買った本。正直、すごく役に立っている。
次の課題は、参考文献表を作ることで、パースに関する本を調べて書いた。読まなくてはならないのだけど、なかなか進まない。
課題3は、パラグラフを意識しながら要約を作ることで、私はパース論文集の中から選んで要約をした。課題3は多分、今回の演習のなかで一番大変な作業なのだけど、パースの論文に関していえば、パラグラフのお手本みたいな文章で、要約が易しい部類だったと思う。
最終課題は、アウトラインを作ることだった。私にはこれが一番やっかいな感じだった。どこまでを説明的に書けばよいかわからなくて、すごく詳しい項目もあれば、目次のタイトルだけ、みたいなところもあって、バランスが悪かったと思う。あと、メディア授業を受けている2か月の間に、最初に作った問題と少し違ったもので提出した。パースを扱うというところは全く変わっていないのだけど、アブダクションではなく可謬主義のほうに私の主張したいところがある気がして、変更した。
合否はまだ出ていない。提出物は全て出したので、成績は問わないからとりあえず合格させてほしい。 合格した。良かった。
夏に返却された卒論手帳は、メディア授業でやったことほとんどそのままの内容のこと(問題、主張、論拠、参考文献表、アウトライン)を提出せよ、とあったので、年明けに若干の修正を加えて提出した。1か月後くらいには返却されるだろうか。それまでに本を読んでおかないと。
夏の卒論指導と5年目の総括
思い出して書く。そして、これは時系列的に、日本政治史の後で、政治思想史の前に書くべきなのをすっかり忘れていた。
昨年までの進捗はこちら。
【外国語科目】
- 英語Ⅲ
- 基礎英語
外国語科目はこれで全て無事に取り終えた。良かった。
【専門科目(選択必修)】
- 倫理学特殊講義
- 科学哲学
- 西洋思想史Ⅱ(仮)
- 哲学演習Ⅱ
- 日本思想史Ⅰ
西洋思想史Ⅱは、まだレポートが不合格のままで単位確定ではないので一応(仮)という注釈をつける。
哲学演習Ⅱは、このあとメディア授業を受ける予定で、それが合格すれば単位が完成する。
日本思想史Ⅰは何にもしていないので、このまま捨て去られる予定だ。
【選択科目】
- 日本史入門(仮)
- 日本史概説
- 国文学概論
- 古文書学
- 文化人類学
日本史入門は、レポートが不合格のままで単位確定ではないので(仮)の注釈つき。
【選択科目(他学部)】
- 日本政治史
- 西洋政治史
- 政治思想史
- 簿記Ⅰ
以上、7科目24単位が完成した。そして確定していない仮の科目が2つで8単位ある。
単位はだいたい揃って、目途がついてきたので、6年目は卒論に集中する予定だ。
【卒論指導】
昨年から一ミリも進んでいないので、未だに一般指導のままなのだけど、卒論指導を予約して受けにいったら、先生側の卒論マニュアルがバージョンアップしていた。卒業予定年月から逆算して、今年の12月までに専門指導まで行くように、ちょっと焦ってくださいと言われる。卒論手帳は回収されて、私が残りの夏期スクーリングを東京で受けている間に、先に自宅へ郵送された。
文系学部不要論というよりは
togetterで
日本のシェイクスピア研究者は512人…こんなに要らないよね - Togetter
を眺めていた。
発端は表題の通りで、色んな学部の事情がわかって面白かったのだけど、そのあとで、元記事を読んでみると、元記事が問題としているところと、随分離れた議論していたんだなあと思った。
中身を読む前までは、実用畑のセンセイが経済を盾に文系学部不要論を唱えているのかと思っていたのだけど、まさかの哲学教授。哲学をやっているセンセイが、カントをやり玉にあげていたので、驚いてしまった。
ということは、これは単なる在り来たりな「役に立たない学問は必要ない」というような文系学部不要論ではないということだ。
読んでみると、純丘センセイはむしろ日本における大学とかアカデミズムそのものの在り方に吠えている。
科学研究者は、かけるお金が大きいために、象牙の塔から出ざるを得なかった。国から補助金をもらって大学を運営している以上、社会に対する説明責任を求められたし、企業と手を組む場合も、研究の意義を問われる。
そして今、文系学部も同じように、研究者は自分たちの研究の意義を世間に問うべきだと純丘センセイは考えているようだ。
年に一本も論文を書かずに、教授職について既得権益の上にあぐらをかいていることへの批判と、自分のためだけに研究はするものではない、という若手研究者への苦言を、私は文章から感じとったのだけど、ここまで書いてよくよく考えてみたら、一学部生が文章中に全く書かれていないことをエスパーして書くのっておかしな話のような気がしてきた。今、はっと我にかえった。
でもとりあえず思ったことを続けると、研究者が自分のためだけの研究をしないように(社会に貢献できるような研究を)するためには、安定した生活を保障することが第一であるのは間違いない。最近話題となった論文捏造の問題とも深く関わっている気がする。
そして現代の大学の在り方からは、象牙の塔に籠る研究者は望まれていない(もはやそんな研究者は絶滅危惧種かもしれないけれど)。知を愛し、人間をある程度信じていないと、大学で教えるなんてできないのではないかと思える。少なくとも、哲学を学んでいる私は、大学の先生方をそういう目で見ている。
大学とは本来どういう姿であるべきなのか、そこで教授する先生方はどうあるべきなのか、文系学部の研究者を目指す人に求められるものは何なのか、そういうことが元記事に書かれているわけだけど、よく見たらこれ、2015年の記事なの?! なんで今頃話題に…。