文系学部不要論というよりは
togetterで
日本のシェイクスピア研究者は512人…こんなに要らないよね - Togetter
を眺めていた。
発端は表題の通りで、色んな学部の事情がわかって面白かったのだけど、そのあとで、元記事を読んでみると、元記事が問題としているところと、随分離れた議論していたんだなあと思った。
中身を読む前までは、実用畑のセンセイが経済を盾に文系学部不要論を唱えているのかと思っていたのだけど、まさかの哲学教授。哲学をやっているセンセイが、カントをやり玉にあげていたので、驚いてしまった。
ということは、これは単なる在り来たりな「役に立たない学問は必要ない」というような文系学部不要論ではないということだ。
読んでみると、純丘センセイはむしろ日本における大学とかアカデミズムそのものの在り方に吠えている。
科学研究者は、かけるお金が大きいために、象牙の塔から出ざるを得なかった。国から補助金をもらって大学を運営している以上、社会に対する説明責任を求められたし、企業と手を組む場合も、研究の意義を問われる。
そして今、文系学部も同じように、研究者は自分たちの研究の意義を世間に問うべきだと純丘センセイは考えているようだ。
年に一本も論文を書かずに、教授職について既得権益の上にあぐらをかいていることへの批判と、自分のためだけに研究はするものではない、という若手研究者への苦言を、私は文章から感じとったのだけど、ここまで書いてよくよく考えてみたら、一学部生が文章中に全く書かれていないことをエスパーして書くのっておかしな話のような気がしてきた。今、はっと我にかえった。
でもとりあえず思ったことを続けると、研究者が自分のためだけの研究をしないように(社会に貢献できるような研究を)するためには、安定した生活を保障することが第一であるのは間違いない。最近話題となった論文捏造の問題とも深く関わっている気がする。
そして現代の大学の在り方からは、象牙の塔に籠る研究者は望まれていない(もはやそんな研究者は絶滅危惧種かもしれないけれど)。知を愛し、人間をある程度信じていないと、大学で教えるなんてできないのではないかと思える。少なくとも、哲学を学んでいる私は、大学の先生方をそういう目で見ている。
大学とは本来どういう姿であるべきなのか、そこで教授する先生方はどうあるべきなのか、文系学部の研究者を目指す人に求められるものは何なのか、そういうことが元記事に書かれているわけだけど、よく見たらこれ、2015年の記事なの?! なんで今頃話題に…。